映画『フェリーニのアマルコルド』季節は巡り祝祭は続く。イタリア庶民の一年間

アドリア海に面したリミニという港町で少年時代を過ごしたフェリーニは、本作の随所に自身の少年期のエピソードを盛り込んだようだ。

しかし、『フェリーニのアマルコルド』は自伝や回顧録というよりは、記憶の断片をフェリーニの想像力という強固な糊でコラージュしながら作り上げた一種の心象風景とかファンタジーと言ったほうがふさわしいように思う。

そこには胸に深く刻まれた忘れがたい思い出だけでなく、不思議と心に残ったままの風景や音、言葉、夢、妄想までもが序列なく混然としているのに、なぜだかちゃんと“映画”になっている。それはフェリーニの変幻自在な映像表現の巧みさゆえであるが、映画は筋書きではなくまずは映像を楽しむものだと教えてくれる。

ノスタルジックだけれど感傷的になりすぎない「軽さ」も魅力。

『フェリーニのアマルコルド』の作品情報

  • 1973/イタリア、フランス/124分
  • 原題:Amarcord
  • 監督:フェデリコ・フェリーニ
  • 脚本:フェデリコ・フェリーニ、トニーノ・グエッラ
  • 音楽:ニーノ・ロータ

『フェリーニのアマルコルド』の感想(ネタバレあり)

冬の終わりを知らせる西風が綿毛を降らせると、春の到来を祝うお祭りをするのがリミニの町のならわしである。夜、町の広場にみんなが集まって、高く積んだ焚き木を魔女の人形と一緒に燃やすのだ。爆竹を鳴らしながら大人も子供も大はしゃぎして、冬の終わりを喜び合う。

フェリーニのお祭り好きが早速発揮されている。

祭りが終わった後の静まり返った夜の町の、ひんやりとした空気もまた心地いい……と余韻に浸りかけると唐突にカメラに向かってリミニの歴史を説明してくれるおじさんが。
この数分間に、ニーノ・ロータのメロディーを奏でる盲目のアコーディオン弾き、色情狂のヴォルピーナ、言葉もなくバイクを飛ばすだけの猛スピード男など個性豊かな面々も矢継ぎ早に登場する。

映画は一応チッタ少年とその家族を中心にして、町で起こる一年間の様々な出来事を描いているが、春を祝う祭りや、ファシズムや、レックス号に町全体が熱狂しているとき、チッタは「町の人々」の一部になって群衆に紛れこみ、どこにいるのかほとんど分からなくなる。

この映画に特別な者はない。

いわゆる「変わった人」や「障碍者」も数多く登場するが、みんな自分を特別だなどと思って振る舞わないし、周りもことさら特別に扱ったりしない。
「同じ町の住人」としてなんとなくうまく馴染んでいる。みんな所詮は下町の庶民と言ってしまえばそれまでだが、我こそはという気負いのなさに、いっそ素朴な力強さを感じてしまう。
町中の注目を集める高級娼婦のグラディスカでさえ、イベントの時はみんなと一緒になってキャッキャと大騒ぎし、大雪が降れば悪ガキたちの雪合戦に応戦する。

フェリーニは『アマルコルド』の登場人物を、おそらくかなり好意的に、愛をもって描いたのだろう。だから町の人々は、貧しさや醜さ、愚かさを表していても、どこか魅力的でかわいく見える。
登場人物を極端な滑稽さで露悪的に描ききった『カサノバ』とは対照的である。

チッタの家庭の食卓は賑やかを超えて騒々しい。
イタズラばかりしているチッタを叱る父とそれを庇う母の言い合いは次第にヒートアップしていく。

「お前のしつけが悪いんだ!」「ならあんたがしつけてみな!」

火のついた母がまた強烈で、「みんな殺してやる!スープに毒を盛って死んでやる!」などと目を剥きながらまくしたてる。
怒りのあまり椅子ごとひっくり返る親父。こんなことは慣れっこだと言わんばかりのチッタの祖父と弟、そして母方の叔父ラリーノ、お手伝いのジーナ。
これが彼らの日常風景である。

リミニの町にもファシズム旋風は巻き起こった。
4月21日。ローマの建国記念日。鼓笛隊の音楽に合わせてファシスト党の行進を熱烈に歓迎する町の人たち。ムッソリーニの顔を模した大きなモニュメント。舞う紙吹雪。

その熱狂のさなか、チッタの友達はクラスメイトの美少女との結婚を夢想する。
いつの間にかムッソリーニの巨大な顔が、神父のように新郎新婦への誓いの問いかけをしていた。

コミカルかつシュールでとても好きなシーン。こういう表現はフェリーニが風刺漫画家だった経験が生かされてるのかな?と思ったりもする。空想と現実は地続きのものなんだとばかりに、少年たちの空想はあちらとこちらを自由気ままに行き来している。

こんな調子でフェリーニはファシズムと民衆の熱狂をユーモアたっぷりに描いているけれど、当時の暗い側面を描いた場面もある。

ある夜、ファシスト党に牛耳られたこの町で、「インターナショナル」(革命歌)を蓄音機で流した者がいた。がらりと町は緊迫した空気に変わり、密告により共産主義者の疑いをかけられたチッタの父は、ひまし油を飲まされる拷問を受けてしまう。
拷問から解放されフラつきながら帰ってきた夫を、妻はずっと玄関前で待っていた。普段は喧嘩をしていても、夫を心配し介抱する妻の姿に夫婦の愛を感じてしみじみする。
それにしても密告者は……ラリーノおじさんだったのだろうか?

その後もちょっとした、しかし印象的なエピソードが続く。

のどかな農場でテオおじさんが爆発させる痛切な性への叫び。
みんなでボートを漕いで見に行った星空の下の豪華客船レックス号。
グランドホテルでの「グラディスカ」誕生秘話やアラブの女たちの舞い。
町中を埋め尽くすような深い霧の中で弟が遭遇する神々しい白い牛。

異性への憧れが膨らみ続けるチッタはたばこ屋のおかみに下心丸出しでこっそりかまわれに行くが、結局は呆れられてしまい、そのあと熱を出して寝込んでしまう。
看病してくれる母に向かって「大人用の長ズボンを買ってよー!!」とぐずる少年の哀れさとおかしさ。
なかなか大人の階段は登れない。

季節は深まり冬。
町には4日間雪が降り続けた。チッタの母は体調を崩して入院してしまった。

「冬を追い出す春祭り」を全力で楽しんでいた町の人々は、本格的な冬の訪れにも全力ではしゃいで雪合戦に興じる。チッタはグラディスカにかまってほしくて何かと近づこうとするけれど、相変わらず大人の余裕で躱される。
そこに伯爵家から逃げ出した孔雀が舞い降りて、羽を大きく広げた。イタリアでは、孔雀は不吉な生き物とされているらしい。

それから、チッタの母が死んだ。
耐え難い喪失感に家族はみな言葉を失う。多くの人が母の死を悼み、長い長い葬列を作った。埋葬を終えて帰った家には、かつての騒々しさはもうない。静まり返った食卓にいたたまれなくなり、チッタはひとりで海を見に出かけた。
突堤に吹く風には少しずつ綿毛が混じっていく。そう、冬の終わりを知らせる風がまた町にやってきたのだ。

綿毛舞う野原でグラディスカと憲兵の結婚式は行われた。イタリアらしい牧歌的な祝宴が、春を迎える喜びと重なり合って、画面に一気に色彩が戻ったようだ。
チッタはグラディスカとのお別れがつらいのか、新郎新婦を見送る前に帰ってしまっていた。結婚式が終わった野原を映して映画は終わる。

母の死と失恋。チッタは特別な女性との別れを立て続けに経験したけれど、フェリーニはそれをことさら悲劇的に描いて、傷心のチッタの内面を深掘りするというようなことはしない。
悲しいけれど、誰だって経験するよねという感じ。

全体を通して感じるのはこの「軽さ」である。

中心的な登場人物といえるチッタでさえ、ほとんど風景と同化していることも多い。特定の誰かをフォーカスしすぎない。
だからこそ観客は、祭りや、レックス号や、結婚式のにぎわいの中に、自由に出入りができるのだ。
私的な映像世界がやがて見るものすべてに開かれた共有の場になっていく。

『フェリーニのアマルコルド』の魅力はその懐の広さにあると思っている。

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