映画『セッション』むきだしのエゴのぶつかり合いと、父親像をめぐる三角関係

2014年のサンダンス映画祭での上映以降、キャスト陣の鬼気迫る演技と緊張感のある心理ドラマが高く評価され話題となった作品。第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、J・K・シモンズの助演男優賞を含む3部門で受賞を果たした。

『セッション』作品情報

  • 2014製作/アメリカ/106分
  • 原題:Whiplash

スタッフ

  • 監督・脚本:デイミアン・チャゼル
  • 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ

キャスト

  • マイルズ・テラー:アンドリュー・ニーマン
  • J・K・シモンズ:フレッチャー
  • メリッサ・ブノワ:ニコル
  • ポール・ライザー:ジム・ニーマン

『セッション』ネタバレありの感想

フレッチャー、アンドリュー、父親。三者の関係

アンドリューフレッチャーの出会いから映画は始まる。

個人練習に没頭していたアンドリューに声をかけたフレッチャーは一瞬で場の空気を支配し、アンドリューを品定めするように質問をしたりフレーズを叩かせたりと軽く揺さぶりをかけてさっさと去ってしまう。
そのあとでアンドリューは父親とともに『男の争い』(Du Rififi chez les Hommes、1955年、フランス)という映画を見る。

これはギャング同士の抗争を描いた作品で、なんでこの映画をアンドリューが見るシーンを序盤に持ってくるかというと、やはり監督の出した「合図」なのだろう。「今から社会通念を外れた男と男の争いが始まります」という合図であり宣言。音楽や教育というのも『セッション』を構成する要素ではあるけれど、多分それは主題ではなくて、本筋は「男の争い」。常人の理解を超えた、不毛とも思えるような、エゴとエゴの激しいぶつかり合い。意地と意地の張り合いが描かれている。

争う男は当然アンドリューとフレッチャーであるが、ここにはもう一つ対になる存在も示されている。鬼教官フレッチャーとアンドリューの父親ジムという二つの父親像である。指導者像とか男性像と言い換えてもいい。ジムは物書きだが本業は高校教師でありフレッチャーと同じく教育者という立場にあるということも補足しておきたい。

フレッチャーとジムは、支配し服従させる男⇔受け入れ支える男、叱る父⇔褒める父、狂気の人⇔常識人という両極のキャラクター付けがされている。

青年アンドリューは、この対照的な二人の男性の間を行きつ戻りつしながら、最終的に自分の理解者が誰であるのか、そして自分が何者であるのかを知る、というのがこの映画のオチなのだと思う。だからあのすさまじい熱量の果てに迎えたエンディングは感動的で解放感に満ちていながら、同時にゾッとするような感覚や、孤独や虚しさの味わいがあり、それが作品をより面白くしているのだろう。

『セッション』はアンドリューとフレッチャーの闘いであると同時に、フレッチャーと実の父親ジムの間をさまようアンドリューという奇妙な三角関係の構図を描いたものと言える。

女性や母親といったものがあまり感じられないのもこの映画の特徴の一つで、理由ははっきりと述べられていないがアンドリューの母は家を出ていき、父子二人三脚で生活してきた様子がうかがえる。
アンドリューにとって初めてできた彼女であるニコルも、何か具体的な行動を起こすというよりはアンドリューの性格や心境の変化を説明する役割として出てくる。人生の早い段階で自分の目標を見つけているアンドリューと、自分のやりたいことがまだはっきりしないニコルという対比があり、やがてアンドリューにとって恋愛は自分の目標のために支払うべき犠牲の一つになってゆく。

アンドリューとニコルの初デートのシーンで、アンドリューが父親と映画館に行くことを自嘲するようなセリフがある。これは、私の実感としてはわかりにくいのだが、やはり19歳の青年が父親と並んで映画を見るというのは、本人にとってはちょっと恥ずかしいとか、自立していないというような感覚があるのだろう。父子の距離の近さを感じるシーンでもあるが、同時にアンドリューは父から「目を合わせない」とも言われていることがわかる。映画館でポップコーンにレーズンチョコをトッピングする時の会話も親子の微妙な関係性やそれぞれの性格が表れている。

そしてこれは超おせっかいな解釈なのだがアンドリューは甘いものが本当は嫌いなのではないかと思う。まずレーズンは嫌いでよけて食べる(嫌いなのに父親の好みに合わせたのかわざわざアンドリューからレーズンを入れている)、ニコルにグミをすすめられるが断る、初デートでニコルをジャズが流れるピザ屋に誘う、父にフルーツ・キャンディがあると言われた後のシーンでピザを食べている、など。父ジムは男手一つでアンドリューを育て、音楽を志す息子の将来を案じながらも常に味方として理解に努める「良き父親」であるが、ラスト10分の展開もあわせて考えると、父はアンドリューの異質な根っこの部分は理解できないということを食べ物の好みでもさりげなく示しているのではないか……と感じたりもする。

目的のためにどこまで犠牲を払えるか

ここでアンドリューとフレッチャーの夢について整理しておきたい。

アンドリューの夢は偉大なジャズ・ドラマーになること。
そのためにアメリカ一の名門音楽院に入学した。「プロのドラマーとして食っていきたい」ではなくて(それでも十分に狭き門ではあるが……)、歴史に名を残すほど“偉大”“ジャズ”・ドラマーになりたいと強く願っている。彼が寮の壁に貼っているバディ・リッチのポスターや「無能な奴はロックをやれ」という言葉。
彼は特別でありたい、人より優れていたいという意識が非常に強い野心家で、そのために権威ある立場からの承認を求めている。わかりやすいのがフレッチャーのクラスに引き抜かれたときのことで、彼は映画館でバイトをしているニコルに以前から気があったのだが、フレッチャーに目を止められたことで自信を持ち、その日すぐにニコルをデートに誘っている。

権威者から認められたい気持ちが強いということは、認められた時の優越感や特別意識も人一倍強いということでもある。それは親戚との会食や、主奏者をめぐるライバルとの争いのシーンでも見て取れる。

親戚との会食シーンのアンドリューは、すっかりイヤなやつになってしまっている。フレッチャー式のシゴキの影響なのか、それとももともと彼のなかで眠っていた性質なのか。音楽に対する無理解ゆえに無神経なことを言ってしまう周囲も悪いのだが、アンドリューは見下しと悪意を持って相手を否定し、僕の方がスゴイんだとアピールする。友達なんかいらない、平凡に長生きするより不幸で短命でも歴史に名を残したほうがいいとさえ“負け犬”である親の前で言ってのける。

せっかくできたかわいい彼女のニコルに別れを切り出す時もこんな調子である。
偉大になりたいという欲望と自分は特別であるという自意識。特に若いうちは誰でも多かれ少なかれ持っているものなのかもしれないが、その執念こそが彼を突き動かしているようにさえ見える。

一方でフレッチャーは天才を生み出すことに取りつかれている。
そのためには暴言も体罰も辞さず、あらゆる精神的プレッシャーを与えながら相手に「完璧」を要求する。どうして彼があそこまで苛烈に生徒を追い詰めるのかというと、「天才は何があっても絶対に挫折しない」という強い信念を持っているから。

「天才は挫折しない→どんなことも乗り越えられるはず→乗り越えたときに本物の天才になる(作中で改変されているチャーリー・パーカーの逸話のように……)」という“フレッチャー理論”とでも呼ぶべき彼なりの理屈があって、フレッチャーにとっては「どれだけ追い詰められても諦めないこと」が天才の絶対条件になっているのである。諦めないことが大事というのは、確かに一理ある。しかしその信念に基づいて理不尽な要求や心理的な揺さぶりを生徒にかけ続けているのだから、やはり狂っているのだろう。

さらに、彼にとって「優秀な人材を育てる」のでは駄目なのだ。死んでしまったジャズのために、歴史に名を刻むような真の天才を生み出すことこそが彼の本懐である。

偉大なドラマーになりたいアンドリューと天才を生み出したいフレッチャー。

夢や憧れと言うより欲望とも言うべき強烈な願いだがここには利害の一致が見られる。フレッチャーは己の目的のためなら手段を選ばない悪魔のような男であり、一人の天才を生むために多くの生徒を犠牲にすることさえ厭わない。精神を追い詰められながらもフレッチャーの指導に呼応するかのように、アンドリューは家族も恋人も犠牲にして食らいついてゆく。

フレッチャーが出している「合図」

深夜にまで及ぶライバルとの主奏者争いでダネレン大会の主奏者を勝ち取ったアンドリュー。しかし会場に向かうバスがパンクするトラブルやレンタカー会社にスティックを忘れるミスなどが重なりついには前方不注意による交通事故を起こしてしまう。血まみれになりながら会場に辿り着くもボロボロの状態では演奏もままならず、フレッチャーから「お前は終わりだ」と“死刑宣告”を受け、逆上したアンドリューはステージ上でフレッチャーに殴りかかった。その件によりアンドリューは退学処分を下され、偉大なドラマーになるという彼の夢は一旦ここで潰える。

ここで私が気になったのは、アンドリューが事故を起こす前日にフレッチャーが交通事故の話をしていた点だ。「教え子ショーンが車の事故で亡くなった」という嘘を生徒の前で感動的に語っていたあのシーンである。

フレッチャーは自らの保身やごまかしのために嘘をついたのではなくて、かつての教え子すら利用して「落ちこぼれが努力した末のサクセスストーリー」や「必死に努力する姿を私だけはちゃんと見ている」ということを演出しようという意図があったと思われる。アンドリューは自身とショーンの姿を重ねたのか、その作り物の美談にすっかり聞き入ってしまうのである。

翌日のレンタカーの事故は悪魔フレッチャーがかけた呪いが発動した……なんてオカルトな話ではなくて悪い偶然が重なった結果でしかないが、面白いのは、作中で何かが起こるとき、観客にそれとなく予感させるような合図を監督がちゃんと用意しているということである。序盤の『男の争い』ももちろんそれ。そしてこの映画の大部分の主導権はフレッチャーが握っているので、合図はだいたいフレッチャーを通して出される。

まずアンドリューがフレッチャーのクラスに入った初日のこと。フレッチャーは彼の家庭環境などを聞き出し、チャーリー・パーカーがシンバルを投げられて云々……という話を振る。そして「楽しめ」とアンドリューを励ます。その後のレッスンは楽しいものなどでは全くなく、アンドリューは再三ダメ出しを食らってついにはパイプ椅子を投げつけられる。

当たり前だがフレッチャーは物を投げつければ天才が生まれると思っていたわけではなく、事前にアンドリューにシンバル投げの話をしていたことからわかるように、偉人の逸話を再現してみせることで「お前を見込んで試しているぞ」という合図をアンドリューに、そして観客に出しているのだろう。アンドリューもその物騒な合図を信じて、文字通り血のにじむような猛練習に身を投じてゆく。

これと同じような展開は終盤で再現される。退学したアンドリューと音楽院を辞めたフレッチャーがライブハウスで再開するシーンだが、フレッチャーはそこで再びシンバル投げの逸話をアンドリューに聞かせ、自分が指揮を担当するジャズバンドが今度フェスに参加するからと言って、アンドリューをバンドに誘う。そしてフェス当日、メンバーの前で「楽しもう」と声をかけているのである。

『セッション』が音楽の楽しさを描いた作品でないことは周知のとおりで、だからこそこの「楽しめ」とか「楽しもう」という言葉が我々にもたらす違和感が警告音のようにスリルを促す働きをしており、フレッチャーの“ヤバさ”もより一層際立っている。

そのほか「今度楽譜が放り出してあったら容赦しないぞ」とフレッチャーが生徒たちに釘を刺した直後にアンドリューが預かった楽譜を失くしてしまうシーンはテンポがよすぎてまるでコント。楽譜の件も事故の件も、フレッチャーの暗示か催眠術にアンドリューが操られているようですらある。それにしても楽譜はやはりフレッチャーが回収したと考えるのが妥当だろうか?それとも……?

合図を出すのはこの俺だ。主導権の奪い合い

二度目の「楽しもう」のあと繰り広げられたのはドロドロの復讐劇である。

考えてみれば、挫折を味わったのは退学処分を受けたアンドリューだけではなく、密告により最高の音楽院の指導者という立場を失ったフレッチャーも同じだったのだろう。彼にはもはやフェスの成功や集まった観客のことなどどうでもよく、アンドリューに対する復讐心のみがあった。フレッチャーの罠によって大恥をかかされたアンドリューは一旦ステージを去り、舞台袖に迎えに来た父に優しく抱きとめられる。この僅かな間に彼は何を思ったのか。

スカウトマンは一度見た奏者を忘れないという。大勢のスカウトの前で大失態を演じたとなれば再起の道は完全に断たれたも同然だろう。しかし彼はステージに戻って勝手にドラムを叩き始めた。「音楽でやりかえす」などのかっこいい言い方はあると思うけれど、私は単純に、失うものが無くなったアンドリューは、指揮者であるフレッチャーに自分と同じような恥をかかせて失敗させてやりたくなったのだと思う。死なばもろとも。純粋な復讐心である。だから予定とは違う曲を叩き出し、自分のタイミングで周囲に合図を出す。物語の大半でフレッチャーに主導権を握られ、いたぶられ翻弄されてきた彼が初めて自分から合図を出したのだ。「フレッチャーじゃなく俺に従え」と言わんばかりの気迫にメンバーたちは押し負けて『キャラバン』を演奏し始めてしまう。

主導権を奪われたフレッチャーは当然うろたえ怒るがついには彼も乗せられてしまう。ライブハウスで「ジャズは死んだ」と嘆いていたフレッチャーが、この時ばかりは本当に生き生きと指揮をとる。

『キャラバン』が終わってもドラムを叩き続けるアンドリューを咎めるが「合図する!」と一喝されてしまうフレッチャー。ドラムソロはさらに激しくなり映画は数秒の無音状態となる。この無音の何秒かで、アンドリューは己が望んだ「何者か」に生まれ変わったのだろう。
舞台袖でアンドリューを見守る父の表情には信じられないものを見るような驚きや畏怖があるように見える。無我の境地でドラムを叩く息子に早世の天才チャーリー・パーカーの姿を見たのだろうか。そしてフレッチャーもそれを認めたからこそ、ずれたシンバルを直さずにはいられないのである。笑顔で見つめ合うアンドリューとフレッチャー。バンドが盛大に締めを奏でて素早く暗転。

……あっちぃ~。熱すぎます。観客の拍手やざわめきを一切入れない終わり方も潔い。

しかしこれってアンドリューとフレッチャーの夢は今までさんざん努力し自分や周りの人間を犠牲にしても叶えられず、夢を忘れお互いへの復讐心に燃えてみっともなくつかみ合っていた時に奇跡的な化学反応が起こって偶然実現したとも言えるわけで、かなり痛烈な皮肉を含んだ結末にも感じられる。偉大な天才や伝説的なプレイは意図して生み出せるものではなくて結局は神のみぞ知る領域ということなのか。

フレッチャーが最後に仕組んだ罠については単なる「復讐」か、天才を生み出すための「指導の一環」かという二通りの解釈があると思うが上述の通り私は復讐だと受け取っている。なぜならアンドリューは退学後は音楽から遠ざかっていて(未練はあったが)、フレッチャーの「天才は絶対に挫折しない」という信念に反する“負け犬”になっていたから。そんな負け犬の密告のせいで自分の夢も断たれたという恨みがあり、再会時に復讐を決意したのかなと思う。
フレッチャーと目が合いそそくさとライブハウスを立ち去ろうとするアンドリューの背後に近づくフレッチャーの動きが速くてこれがまた怖い。

挫折した男同士の復讐の果てに生まれる芸術。こんな寓話もあっていいと思ってしまう力のあるエンディングだった。

『セッション』は登場人物やセリフがかなり絞られていてテンポよく進み、全体的を通して無駄な要素はほとんどないように思われる。あまり説明的なセリフもないから登場人物の感情の動きはキャストの演技の上手さに大部分を委ねられている。
画面越しに伝わってくるほどの威圧感を放つJ・K・シモンズはもちろんだが、アンドリュー役のマイルズ・テラーもやはりすごい。主奏者の座をめぐってライバルたちと順番に演奏をさせられるシーンの、フレッチャーがライバルをけなす背後で口元を少しゆがめて一瞬だけニヤッとする表情は最高である。そのほかにも、序盤でライバルが女の子といちゃついてる様子を見たときの卑屈さがにじんだような表情や、主奏者を勝ち取った後の焦点の合わない冷めた顔つきなど。
一見すると気弱で純朴そうに見えるがその内側には強い自意識と野心をたぎらせているというアンバランスなキャラクターを見事に表現していた。

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